私たちの政治制度には共通の欠陥がある、正しくあろうとすることだ。憲法も、法律も、綱領も、安定した答えとして設計され、その後は変化に抗って守られる。だが現実は、動くのをやめない。セージオクラシーは優先順位を逆さにする、正しさを主張する制度よりも、自らを正すすべを知る社会を。これがたえざる調整の原理だ。
正しくあることは、もろい立場だ
一度きりで永久に正しいと信じる制度は、自らを閉ざす。あらゆる誤りがその正統性への脅威となり、だから修復するより隠す。制度が、誰もが誤りと知る道を何年も歩みつづけられるのは、こうしてだ、愚かさからではなく、誤りを認める代償が高すぎるからだ。たえざる調整はこの代償を取り除く。自らを正すことは、失敗の告白であることをやめ、通常の働きとなる。
生きているものが教えること
身体も、生態系も、完全さを求めない。合図をもとに、たえず調整する、熱、冷え、不足、過剰。どれも「正しい」わけではない。すべてが自らを正し、それが生かしつづける。長く続く人間の技、手仕事、科学、医学、も同じように進む。試み、返り、手直しによって。セージオクラシーは、この論理を、誰も開こうとしない文書の中で凍らせるのではなく、共に生きる営みへと広げることを提案する。
生きつづける社会
具体的には、あらゆる決定が、それ自身の見直しを内に宿す、それを再検討する期限、押し殺さずに聴かれる合図、遅くではなく早く気づかれる誤り。永遠に刻まれるものは何もなく、すべてが開かれたまま保たれる。賢い社会とは、けっして誤らない社会ではない。手遅れになる前に、自らを正す社会だ。